昭和50年03月01日 月次祭



 二月の月も一生懸命に信心の稽古をさせて頂きながら、だんだんおかげを頂いて終わらして頂きました。なんと申しましても、二月の月の一番の事は親教会長、荒巻親先生がお国替になったと言う事で御座います。二月の月を振り返らして頂まして、まぁさまざまな事柄があり、さまざまな問題に直面しながら、それをそう大して気張らなくっても、信心で受けてくれたと言う事。もちろん信心の修行の方だけは、まぁ私なりに一生懸命精進させて頂いたとこう思う。
 二月の月もおかげで一生懸命、信心の修行をさせて頂きましたおかげで、様々な事が御座いましたけれどもその様々な事をね差ほどに難儀な事とか、困った事とか特別に悲しい事とかとせずに、それを信心で結論は有り難い有り難い勿体無いと言う事で終わらせて頂いた。此れは二月だけの事ではありませんけれども何時もその様にしておかげがいけて行けれる世界を、私共は信心を頂いておる者の世界だと言う風に思うんです。なら始めから、私がそうであったと言う事ではないけれども段々おかげを頂いて来た。
 そして私の心の中からどう言う様な物を心の中に見極め、どう言う様な取り組み方をして来たかとまあ、ざっとこう思うて見ますと第一何時の間にか我情我欲が、もうほんに影を潜めておるなと言う事で御座います。我情と言うのは私がああしたい、こうしなければならないと言う事ではない。ね、それは有りますああもしたいこうも有りたいと思うのですけれども、お取り次を頂いてお願いをしたらそれから先は神様におゆだねお任せをするという心、此れが私は我情をとった者の姿だとこう思うんです。
 こうなからなければ出来ん、というのではないのです。ね、我欲というのは、矢張り嫌が上にも欲しい欲しいと思う、私は心だと思うんです。それは誰しも思わん事は無いのですけれども我がない、欲は有っても我がない。まあ言い換えれば小さい欲がない。普通人間が感ずる様な欲が段々、無くなって来たと言う事である。そして有るものは大きな欲。まあ言うならば大欲とでも申しましょうか。言い換えると神様が願われる欲と言う様な物が、自分の心の中に一杯育って来たと言う事であります。
 どの様な場合んでも和賀心を崩さないで済む、和らぎ喜ぶ心を崩さんですむ何時の場合でも有り難いという答えを出して行けると言う事が出来けるという、私は幸せを頂かして貰うのが、信心をさして頂く者の願いでなからなければならないと思います。そこで矢張り願いをそこに置かなければいけんのです。私の心から第一憤怒の情と言う様なものがなくなって参りました。憤怒の情腹を立てんと言う事です。ね。
 それは以前は有りました。もう一晩も二晩もその事を思うたら晩が眠れん様に腹ん立つ事が御座いました。けれどもね腹の立つその心をです結果においては二日掛りでも、三日掛りでも矢張り有り難いという、諦めではないね答えを出スコとに精進して来たと言う事で御座います。それから羨望の心それは人を羨む心で御座います。なかったかなやっぱり有りました。私の修行中の時分に本当にあの修行中の時分に、あの人がどんどんおかげを頂いて行かれる姿が、もう実にこうクローズアップされて来るんですね。
 例えば私の方のすぐ前の宮崎さんていう方の田んぼなんです。はあらぁこの頃田植えし御座ったがもうこんな黄金の実り、こういう収穫がもう出来る様になっとる、ほんなついこの頃田植えし御座ったごとあるばって。いやほんのこの頃沢山な実りを採り御座ったが、もう取り上げが又始まっとるという一年なら一年の間の事でもです、もう人はその様にどんどん収穫をして行きよるのがです、何とはなしにはぁ早いなぁ人が儲け出して行かっしゃるとは早いなぁというのが、その間こっちはなぁんにも出来よらん。
 収穫なんか全然ありよらん、来る日も来る日もまぁおかげを頂いて、ね、一碗のお粥さんに事欠いた事はないけれども、何時んどんなったら硬いご飯ば食べられるやら解らない様な状態であった。もう人が取り上げから取り上げの一年間の早さ早さ、人が儲けなさっとるに早い、そう言う風に見えるんです矢張り、此れは矢張り羨望だったと思うですね。けどもそう言う様な心が段々、段々影を潜めて参りました。
 そりゃ様々な事が御座い居ました。ね、もうなんか面からね、私の事を貧乏人と罵った人もありました。ね、貧乏人と一緒におると、例えば丁度年末の三十一日のつごうの晩でした。ある事でそこに参りましたら、私が立ち上がるのを見て、その方が言われました。ね、私はさよなら言うて、襖を閉めましたら、大坪さんそこ開けといて下さいち、言わっしゃった。貧乏神が出て行かにゃんから、ち。ね、
 私がその襖を開けて出て行く、その襖を閉め様としたら、その方が言われました。大坪さん開けといて下さいち、貧乏神が出て行かにゃなんからと、私を貧乏神とこう言う風に言われる訳だったでしょうね。はぁら一時はショックでした。もうそれこそまぁ言うならば、今に見とれという気持ちも起こらんでもなかったけれどもです、ね、後々で考えて見ると、あれはあの人ではなかった神様であったと言う様な頂き方が段々でける様になって来た。おかげで奮発がでけた。ね。
 今にして思うのにあの人に、あの言葉を、いっちょもう一辺言い反してやらにゃ、と言った様な思いはさらさらなくて、むしろその人にお礼を言いたい心が生まれて来た、と言う事である。言うならば私の心からは、復讐心と言った様なものはもうさらさら、陰を潜めておると言う事であります。皆さんおかげを頂いて行く為にはね、そういう敵討ちの精神です。言うならね、それから言わば人を羨む精神です。
 人を憎悪する憎む精神です。ね、次に只今申しますね、所謂我情我欲と言う物がです、私の和賀心を蝕むものであります。私の折角の和らぎ喜ぶ心をです、そういう心がね確かにお話しを頂いた、心が有り難うなったけれども帰って見たら、もう有り難い物は何処へか行ってしまっておる、というのが、私共の心の中にはそ言う様なね、羨望の心とか憤怒の情とかね、又はよこしまな欲望と言った様な物を、取り除かせて頂いて居る内に、何時の間にか私の心の中に。
 それはどういう例えば普通でいうなら、ショックだろうなぁと思う様な事であっても、普通でいうならもうそれこそ、席をけって立ちたい様な場面に合いましても、それを寛大な心で受け止めて行けれると言う事が、有り難いと言う事で御座います。私は二月の月にはそれをしみじみ感じました。一生懸命信心の修行をさせて頂いた。一月を終わって締め括ってから、御礼を申しさせて頂きますと様々な事があったが、その様々な事を皆んな、信心で受けて来たと言う事である。
 しかもあの時にも腹を立てんで済んだ、ああいう時にも席をけって立つような事をせんで済んだ。ね、一切を和賀心、喜びの心信心の心で、受け止めさせて頂く様になったと言う事がです、ね、私は有り難いと思うのです。先ほど幹三郎が前講を務めておりましたが、何がなんやら私此処で、ですからあまり聞こえません。中に自分よりも年を取った人、先輩の人の言われる事と言う事に。
 まぁ例えば親先生が日頃言われると言った様な事に、こう無条件にそれに付いて行けれると言う事が有り難いと言った意味の事を言いよる様にあった、解らなかったけれど。それこそ親鸞聖人様じゃ無いけれども、善き人の言われる事と言う事である。善き人と言う事は、師匠法然上人を指してのものでありしょう。その善き人の言われる道を辿らして頂いて、よしそれが地獄道に継ながっておっても、さらさらいとわんという純粋さなんです、ね。善き人の言われる事をね。
 守らして頂いてそれがもし地獄道につな、落ちるとか地獄道に継ながっておる道であっても、ね、その人の事を守らして頂くと言う事を尊しとする、有り難いとしておるという純粋な頂き方であります。信心にはこの純粋さと言う物が必要なんです。今日は四時のご祈念に合わせて田主丸のむつやの、元のご主人であります田代幸子さんの、今日は帰幽日で御座いました。ね、ですから子供達も二人そすと信司さんと三人でご挨拶してくれと言う事で御座いましたから、ね、神様に御霊様にご挨拶させて頂きました。
 私はお供えがしてあるのが、この大きな鉢盛が来てましたから、それがもうお寿司、お寿司とばっかり思うておった。お寿司やらお神酒やら色々こうお供えがしてある。だからそん、お寿司とばっかり思うておった。神様にその事を私は御礼を申させて頂いておるうちに、大きな鉢盛にですねあの、いか、いかのお刺身の様なそれに、あの数の子をこう和えたのが一杯鉢に盛ってあるのを頂いた。ね、いかというのはあれは、改まりの時に頂くんのです。いかん。ね、もういかんとこげな事じゃいかん。
 こげなこつじゃおかげ頂かれんと自分で解ったらです、それをいっちょ、素手で見せなければいけないというのです。それをひあがり干さなきゃいけないというのです。こう言うはあこげなこっちゃ自分は幸せに成れない。こげなこっちゃ自分な儲け出しきらん、こげなこっちゃ本当の信心が解る筈はないと言う様な心を、自分で見極めたならばです、そのいかの心をいかん心をです、言わばそれをもう一丁するめにせにゃいかん。そすとそのするめが何時まで置いても悪くならないというか、噛めば噛むほど味のある所の、お徳になるというのです。
 その言わば乾かす間が少しじゅつない訳です、ね、しかもあの数の子の子でね、まぶしてあると言う事は、数の子と言う事は繁盛にも意味する事だろうけれども、まあ子供達と私は感じた。今日参って来ておる信司君の場合は叔母さんになりますけれども、も、小さい時からお母さんで通って来ておりますからね、三人の例えば子供達他にいくらもおります。けども近所におるのが現在三人ですから、三人でまあ言うなら、仏教で言うならお立ち日である。に、お母さんの好きであった物をというて。
 まあ色々心尽くしの物をお供えさして頂いて、御礼を申し上げる。それでそう言う例えば、真心を込めてお祭りの一つもして貰うと言う事が、神様の御霊様の喜びでないはずは絶対ないのだけれども、それよりももっと喜ばれる事は、神様でも御霊様でももっと喜ばれると言う事は、信司さんね喜代司さんかずえさん、ね、あんた達が本気で信心をさして貰うて、改まらして貰うていかん所を改まって、ね、そしてこういうおかげを頂いたと言う事にならなければ、私は本当の御霊様の喜びはないと思うよ、と。ね、
 又はそういう、帰幽日なら帰幽日と言う様な時にです、式年なら式年と言う時に、賑やかに例えばお祭りをすると言う事も喜ばれるに違いない、けれどもお母さんが残しておってくれた信心を頂いて改まる所を改まり、信心を進めさせて貰ってかく力を頂いて、かくおかげを受けたと言う事が神様の喜び、その儘また御霊様の喜びだよと言うて、終わらして貰いえぇもう五時ごろになりましたから、ね、下がりを頂いてそして。
あのお茶の間で、御直会を頂きました。そして下げて見てです私は思わずビックリしたことが、その真ん中に私が頂いたご心眼の、いかとその数の子和えのそれがあったのでビックリました。私は寿司寿司と思うとったらお刺身の鉢盛であった、色々沢山の刺身ばかり、ね、それで勝手の方で準備さしておった、あらもうこげん魚があるなら、勝手の方で準備さしとった要らんてい、と言う様な事で御座いましたけれどもです、そこでまあ色々話を聞いたり、させて頂いたりまあした訳です。
 末永先生もちょっと、むつやの親戚と言う事で御座いましたので、一緒にご直会を頂いとりました。末永先生がこういう話をするんです。僕は椛目の時代にお参りをさして頂いとる時に、たまたま久保山先生がお座りになっとった。そしたら田代さんが夜、お参りになった。その時に田代さんと家の親先生との出会いを聞かせて頂いた。私が北京に参ります時参りまして、北京のあの司令部が御座いました、トンスーパイロの、スーアリョウちゅう所のおりました。
 その大通りからこう入ってこう参りましたら、電柱にむつや呉服店ちゅう看板が出とりますもん。はりゃむつや呉服店ちいゃ、ありゃほんに浮羽郡にしかなかったがと思うて行きましたら、むつや呉服店の看板が出とりますもん。勿論店ははってあるわけじゃありません。ね、確か田主丸のむつやが来とるとは思われんばってん、やっぱ同じあれがあるだろうかと思うて、それから私の酒屋の倉が、それからまぁ五町位離れたとこに御座いました。もう日本人は一人もおりません。
 シナ人ばかりの中です。そこにむつやがあり、私共の店があったんです。それからその幾日後にかです、その私共の蔵男におられた方の妹さんが、そのむつやの縫い子さんに来ておると言う事が分かって、はあやっぱ浮羽郡のむつやじゃったばいのと言う事から、私があちらへ挨拶に行きました。したら大変珍しいあの全然知らんけども近所というので、その色々お茶を頂いたり何か致しました。
 それ以来私は傍ではありますし、もうそれこそ親戚付合いを以上のまあ、付き合いをさせて頂いとった。その一番初めの日に、ね、親先生があの外庭にこう机とか椅子を出して庭で皆んなこう、あのお茶を呑むんですあのあちらそしたらね、私が足元に米が一粒落ちておった。それを私がこう押し頂いて頂くのを見て田代さんが、はあこの人は変わった人じゃあると思うたら、金光様のご信者じゃったげな、実は私も甘木の教会にお参りすると言う事になった。
 それから田代さんと私のはもう、大変信心の上でも親身になりご主人の家は商売の上で大変な心安いお付き合いをさして頂いた。あちらは暫くしてからこうわと言う所に移られました。そしてあの時もう、それこそ日本人の皆殺しがあった時に、あちらのお父さんはもう大変おかげを頂いて、奇跡的なおかげを頂いて助かっとります。そう言う様な事ですから、北京に出て来ると必ず、私の方が常宿であった。
 そいで私がまだ家内がおりませんから自分でテキを作ってやったり、色々肉が大変好きでしたから、そう言う様な関係があって、本当に田代さんと私というのは、ね、何か知らんけれどもなにか係わり合いが合ったという話をさして貰った。いやそういう話を久保山先生から末永先生が聞いたという話を、そしたらその子供達が皆呼んで、いやその話は僕たちも聞いておったちゅうんです。ね。
 合楽の親先生との出会いはこうじゃった。そして一番初めにおうた時に、一粒の米を押し頂いて拾わっしゃったあの人が今の椛目の親先生、今の合楽の親先生であると言う事を子供達もやっぱ知っておった。僕もそげな話を聞いとったと言う訳である。私は思うのですけれどもね、それを聞かせて頂きながらです、私はそう言う言うならば、もう兎に角まぁ信心はしとったけれども、我情我欲で一杯もう兎に角儲けさして頂きたい、御用だけはするけんでと言った様な信心の時代であってもです。
 そんなら一粒の米を押し頂く所の精神だけは、子供の時からあって、今日に至っておると言う事を実は聞いて頂きたいのです。ね、信心と言う物がそう言う風に、何十年間此れは私は自転車で行きよっても、そこに穀物がこぼれとるなら飛び降りてからそれを拾った。此れはポケットの中にこうして入れておく。私の洋服のポケットん中には、大豆やら麦やら米やらがいつも何粒か入っとるです。此れだけはです私が実行し抜いて来た。ね、それに伴うてなら信心もやっぱり続いておったと言う事で御座います。
 そういう何十年間の信心の、なら焦点と言う物は何時も、それは変わっては参りましたけれども、愈々より本当な所へ焦点を置かせて頂ながら、何十年間経たせて頂いている内に、今日皆さんに聞いて頂いた様に思う事がなくなり、欲しい物もなくなりね、特別に憤怒の情と言う物も段々消えて行き、ね、羨望の心等はさらさらない、復讐心等はもう探そうとしたってない、なぜってむしろ復讐しなければならない方の、相手の方の人を拝んでるんで、おかげだと言うて。ね、
 そう言う物が取り除かれて行く内にです、何時の間にか信心のいうならば、幸せの世界と言う物を、自分で開かせて頂いておる事を気付かせて頂いて、改めて二月の月が有難かったという話を今日は聞いて頂いた訳で御座います。ね、昨日は竹葉会で御座いました。竹葉会で久留米の石井さんがお話しを致しておりました。今朝ほどお届けを致しました。今朝方お夢を頂いた。もう勿体無い勿体無い、三代金光様が私の方に見えました。前の金光様ね、そうしてね大きなお声でね。
 合楽の大坪総一郎を三井教会長に任ずるとお声を頂かれた。それから香織さんが起き上がってですね、それからその頭を下げて、金光様合楽の先生が三井教会の教会長になられるなら、合楽はどうなりましょうかちゅうたら、そのままと仰った。そんならば三井教会の若先生はどうなされるでしょうかと聞いたら、それもそのままというお声であったというお知らせを頂いて、昨日の朝のご理解を頂いておる人は思い当たる事があるだろうと思うのです。ね、私が例えば先生の告別式の時に、ね。
 言うならば不徳ながら葬儀委員長を務めさせて頂いた。私はいつうも何かの時にそういう何々委員長、言うならば私はあの三井教会の教会長にでもなっておる積りで、此れから親教会に奉仕をさせて頂きたいと言う様な朝のご理解でした。その夕方にその石井香織さんが頂いておるのが、そう言う事でした。ね、そりゃまぁだ私が思いを、例えばそんな事どん言うたら腹を立てたりもうお前がつとこと、という人も沢山ありましょうが問題は、私の心の中であります。私の思いです。ね。
 愈々三月三日、明日、明後日が、あちらの報徳祭で御座います。親先生おられない報徳祭です、何とはなしに心も矢張り親奥様にした所で若先生にした所で、心もとない淋しい思いがなさるだろう、ね、せめて淋しい思いをなさらん様に、親先生が亡くなられたらもう、こげんお参りが少なうなったと言った様な事のない様なお祭りを私は願っておるので御座いますが、皆さんもどうぞ一つおかげを頂いて、明日、明後日の十時半からで御座いますから、ね、ご参拝のおかげを頂いて頂く様にお願いを致します。
 そして今日私が皆さんに聞いて頂いた、何時も此れはね実際をいうたら、理屈じゃ無いのです、此れば取り除いたからこうというと言うてきめんの物じゃないですけれども、何とはなしに信心が続けられておる内に、どうしてこう言う風に有難う成って来たであろうかと、どうしてこう言う事が心配にならん様に成って来たであろうかと言う物が身に付いて来る。為にはです、私は本気で一生懸命に信心の稽古をさせて頂かなければ、その時では間に合わんのです。ね。その信心の稽古に怠りなく。
 一つ本気で信心の稽古をさせて頂きたい。今日私が憤怒の情とか、または羨望の心とか、ね、羨む心とか復讐心を除かなければと申しました事は、此れはキリスト教の、キリスト教の教学の本に出ておった言葉を借りました。けれどもそれは矢張りお道の信心ではそれにふさわしい、いやもっと適切な言葉がある所を、皆さんの信心でお道流に頂きなおして、一つ改まって頂きたい、信心の稽古をして頂きたいと思います。
   どうぞ。